本当に全然書く暇がなくて心が潰れそう
昨日は店としてのインベント。
店としてのイベントを2週間続けて、その為の準備に他の仕事もこなしながら1ヶ月以上の時間が掛かったのでそういった諸々のことも込めて全然全くどうしようもなく果てしなく時間が足りなくなってしまった。
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昨日も自宅へと戻ってきたのは深夜の1時を越えていて、お風呂に入ってからまだ生ぬるい風に当たりながらベランダで煙草を1本吸って3時かそのくらいにようやく寝た。起きたのは6時の少し前。
目が覚めてしまう。
時間が足りないときっと本能的にも思っているのだろう。
「書く」ということは「自分自身への自己療養」だと思っている。
書くこと自体でお金を貰っている訳ではないし(つまりこれはプロではない)ある意味ではただの趣味的な要素ではあるけれど、書くということでPCで言うところの俺は俺の頭のキャッシュをクリアしているのだと思う。
開放とか放電というのにも近いのかもしれない感覚。
ただし、忙しい時には良い文章(と言っても元々ずっと稚拙な物書き)など書けるはずもない。
そこにはインプットがないからアウトプットに良い文章など生まれるはずもないのだ。
インプットを施す時間が足りない今のような時には、堆く蓄積された心の内側の塔のような中から手探りでなにかを掴み出し、それを言語という言葉のカタチへと置き換えてみるだけのこと。
でも不思議なことにタイプライト(でも実は右の手首はすでに腱鞘炎を発症しているので長い時間最近はタイプライトをすることが厳しいのだけれど)をしているとなんだか自分の心が救われていくような「気がする」のだ。
つまり要は「気」なのだ。
病は気からの気であり、元気の気であり、気配の気である。
じわりと自分に忍び寄ってくる恐怖心という気配を振り払うように俺はなにかにすがるように文章を書くのだろう。
書くことを辞める日。
それはまた終わりを指すのだろう。
真面目風に写真を撮るとこんな感じ。
自分でデザインをした洋服と自分の店で。
洋服だなんてもので人の心が変わることなどないと思っている。
でも、洋服に向き合うその人の姿勢や想いは人の心を変えると信じている。
そのツールであり、カウンターの上に載る珈琲のような存在。
それが俺にとっての洋服。
週末まで。
そうしたら1ヶ月ぶりの休み。
料理がしたい。
ワン子供と浜辺に行きたい。
今日も空は高いまま。