読書とラジオが俺の趣味
書くということのルーティンは読むことへのルーティンに似ていて、読書をするとものを書きたくなるしものを書いていると読書がしたくなる。
俺にとってはラジオもそういうのに近くて好きなラジオを聴くとその世界観に入っていって書く時にもついその口調(口述調)になってしまったりもする。
趣味という言葉は色々な意味を持っているように思う。
洋服売りが仕事でもあるので、来てくださるお客さん(familyとかオーディエンスとか俺は表現しているけど)にとっては洋服が趣味って人も多い。俺にとっての洋服は趣味でもあるけどもう少し捉え方が違くてやはり仕事側になってしまうので、純粋な趣味性とは少しズレてしまう。仕事が趣味と言っても俺の場合は間違いでもないからこの辺りの自分での捉え方もまた難しい。
単車や車、そういったものも趣味だけれど通勤で使ったりもするのでこれもまた難しい。
そういう意味では読書もラジオもどこかで仕事へと結びついているから全部がそうか。。。
でも、誰か他人に聞かれたら(つまり俺に対する関心という稀有な行為)「趣味は読書とラジオ」というのが昔からの常だったりします。
で、今日はそんな中から村上春樹小説に関して。
俺に対するマニアな人(さっきも言ったけど稀有な人)にはすぐにバレる。まぁその人が村上春樹が好きだったらって前提にはなるけど。
昨日のブログにも少しだけ話しが繋がる部分がある。
昨日の話の途中で靴を300足ほど所有していた頃があると書いた。もちろん事実。
その後の話を書いていない(また今度覚えていたら書こうか)けど18歳くらいから集め始めて20歳には300足くらいあって、でもその後に「エンジニアブーツ」という俺の人生そのものを変えるブーツに出逢って300足は行き場を失った。「その1足」が俺の人生にあればそれで良いと思えたからだ。
本も同じような運命を辿る。(18歳からこの20歳で俺の礎の多くは完成されたと言っても良い)
書きながら思い出したけど音楽もそうだった。(もちろんそれはBLANKEY JET CITY)
俺にとっての本というものに出逢ったのは17歳の夏。
これもつい最近のブログで書いたけど実はこれは高校生の頃のラグビーの時代に遡る。
顎を折るという大袈裟な事件が起こって数ヶ月に渡る入院と手術。
ベッドの上にただ居るだけの生活が続く中で読書好きだった父と当時の高校の担任が見舞いがてら暇を持て余している俺に持ってきたのが数冊の小説だったのが始まり。
北方謙三、五木寛之、遠藤周作・・・
することもないから読み始めた本の世界はどうしようもないくらい俺を別の世界へと連れて行ってくれた。
病院の消灯時間が過ぎてもベッドサイドの小さな明かりをつけて明け方まで取り憑かれたようにそれらを読んだ。幸いなのか時間だけは膨大にあったので(今の自分に切り分けてあげたいくらいだ)読んでは次を、手持ちが終われば病院の小さな売店へ行って適当に買った。それも買い尽きると見舞いの母へ父の読み終わりを持ってきてくれるよう頼んだ。
長く渡る入院生活を終えて退院後にもその読書の生活は続いた。
高校の通学には片道30分ほどの電車を使っていたからその時間も読書の時間へと変わったし、帰宅後や授業中もそういう時間へと変わった。
専門学生になっても変わらずにそれは続き、17歳で始まったこの読書の「旅」は実に今でもある意味では続いている。
17歳から20歳の過ぎまで300足の靴と同じくとにかく色々なものを読んだ。中古の書籍屋(やっぱりBOOK OFFが多かったね)へ行っては10冊単位で本を買った。朝は新聞も読んでいた。読むものが手持ちになくなれば辞書を適当なページから広げて適当なページまでを読んだ。活字を栄養にして育つ虫のような感じになっていた。
20歳と少し先、その広大な海を小さな船で巡る旅はある意味では突如終わりを告げることになる。
それが「村上春樹」の小説だった。
たぶん最初は「ノルウェイの森」だったように記憶している。
それはあまりにも自分の中で衝撃的だった。
それがどのくらい日本と世界、つまり世間で大きな話題になった小説であるとか村上春樹なる人物がどういう小説家なのかは今でもよく分かっていないし(一般的に超有名だってことくらいは知っているけど)どうでもいいけど、それはやはり僕という人間にとっても大きな出逢いになったことだけは間違いない。
俺はその日から村上春樹ばかりを読むようになった。
そして20年と少し経った今も。
俺は文庫本しか読まない(ハードは置き場がすぐになくなるし、持ってあるけないと嫌だ)ので200Pや300Pなので前にも少しだけ書いたけど俺は50P/30分(100P/1Hだけど大体30分で自分で一区切りをするので)一冊2時間くらいあれば大体読めるので多ければ日に3冊とか4冊読むこともあった。
そして嘘みたいに聴こえるかもだけど同じ小説を繰り返し読む。上に日に3冊って書いたけど、下手するとそれは3回だったりすることもあったりする。
不確かだけれど確実に言えることは「風の歌を聴け」に関して言えば実に100回は読んでいることだろう。事実あまりにも持ち歩いて繰り返して読みすぎて本自体が駄目になって今持っているこの小説は同じタイトルの3冊目である。
これが出来るということはある意味では間違いなく俺が「馬鹿」という能力と才能を持っているからだと思う。
だって、普通は飽きたりするみたいだから。
でも俺にとっては別にそんなことはなくて本というその世界に足を踏み入れるとそこはまるで初めて行った場所のように見える。(近い感覚で言えばディズニーランドへ繰り返して行くのもきっと同じだろうか)そこに広がっている風景や季節や風の匂いや切なさは何度何度行っても俺を楽しませる。逆説的だけれど少し自分の中でその旅に飽きを感じた時には文庫の本を適当に開いてそこから読み始める。手前部分を飛ばして踏み入れる途中からの旅はまたそれはそれで良いものだしそれでも俺をがっかりとさせることはないからだ。
・風の歌を聴け
・1973年のピンボール
・羊をめぐる冒険(文庫だと上下巻) ちょうど昨日また1度読み返して終わったところ
ぐるぐるぐるぐると。
もちろん他のタイトルも好きだし読む。
・ダンス・ダンス・ダンス
・海辺のカフカ
・ねじまき鳥クロニクル
・世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド
そして
・ノルウェイの森
一冊だけ挙げろと言われたら「ノルウェイの森」か「風の歌を聴け」(おいおい、1冊と言って2冊挙げる)かな。
もちろん他の作家も時々は読む。江國香織、百田尚樹(小説家としての彼の作品はなにげにかなり好き)、あと大切なのはトーベ・ヤンソン(ムーミンね)。
今でも遠藤周作や五木寛之なんかも好きだけど。
巡ること。
ルーティン。
どうやらそういう性格で、その限られた世界で生きているのが好きなようだ。
最初はその世界の広さを知りたくて色々と細々と旅へ出掛ける。
途中で「あ、ここなんだな自分の居場所は」というところでとどまりそこからは動けなくなる。保守的で自分自身を保護してくれる小さな円、洞穴を見つけたらそこに入り込んで出てこないのがどうやら俺という存在らしい。
洋服に対してもそう、靴に対しても、本も音楽も食事も伴侶と子どもたちも。
馬鹿という才能を持っていると自負している。
同じことで飽きないという馬鹿さ加減を愛してる。
俺はそれでいいと思っているから。