松岡正剛という人が居て
いろんなこと、もの、
そして言葉に影響を受ける。
最たるものとして以前に松岡正剛という人のとあるインタビューを聞いていて。
「矛盾が最高の魅力、それを僕は超矛盾と呼んでいる」
意味は分からない。
けれど、言わんとしていることは「なんとなく」感じる。
優れた知性とは二つの対立する概念を同時に抱きながら、その機能を充分に発揮していくことができる、そういったものである。
(スコット・フィッツジェラルド『The Crack-Up』より)
これはフィッツジェラルドからの引用を「風の歌を聴け」(村上春樹)の中で使用している。
・・・
まぁなにが言いたいかと言えば特にそれもなく。
でも、人がなぜ生きているのか?なぜ死ぬために生まれてくるのか?
これはある種の矛盾であり、その先に生きる意味や意義、愛だったり悲しみがあるとすればそれはある種の超矛盾でもあると僕は感じる。
不要で不急(でも不朽でもある=日本語はこういう偶然がとても嬉しいと感じる)も洋服を売ることもまたしかり。
例えば犬。
彼らが僕らにもたらしてくれるのは大きな愛であるけれど、彼らを育て共に生を過ごすことは大きな金銭的負荷と時間の負荷となる。
もちろん家事は手伝ってくれない(時々はそういうワンコもいるのだろうが少なくともうちのワン子供はしてくれない)、医療費は掛かる、食費も掛かる、散歩の時間やトイレの片付けにも時間は掛かる。けれどもその負荷を差し置いてでも彼らは僕らに大きな愛情の時間、幸福をくれる。
つまりは無駄という呼び名の先にある至福はある意味での超矛盾であり矛盾を越えた理論以上の産物であると呼べると思うのだ。
Camera / Leica – M – Typ240
Lens / Leica – Summicron 35mm f2.0
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陽の下へ出掛ける時、その多くの時間。
うちのカミさんは大抵は日焼けのための日傘を差す。(とても気を遣っているようだ)
どうしても顔部分がいつもシャドーで潰れる。
ストロボを当てたりもして対処することもあるけれど、まぁ日常写真であり趣味写真だからいいやとそのままのことも多い。(このショットもたしかそう)
偶然流れ着いていた流木が椅子代わり。
カミさんの視線の先には僕ではなく我がワン子供たちが走ってる。