38回目の朝 _2026.06/21_Olympus / OM-2
記したいことは沢山と、在るのにそれを紡ぐ時間も心持ちも持てなかった。
また再びそれらを残したいと思いながらまだ迷いの中に居る。
大きな波や深い渦のような中に身を置いているように感じているのはここしばらくのこと。
もちろんそれは以前からもそうであるしもしかしたら生まれつきと言って良いような、ある種の先天的な病にも似ていてしかしながらそれが自分自身の原動の源でもあるようにもずっと感じて生きてきた。
気がつけばこれが38回目の朝を迎えた。
スタッフから造花の花束を貰った。
枯れない花の意味を考えた。
僕はどうやら「影」のために生きてきて、生かされているように感じるのは最近のこと。
150回目をとうに越えた1冊の本を開いていてそう感じることがあった。
僕は僕自身にどのくらいの興味を持って見ているのか。
たぶん、見ていないのだと思った。
しかしながら、自分が投影するその影を見ることやその影の在り方を強く意識しているのだということに気がついた。
そうか、と。ふと。
僕は僕自身がどう見られるか、見えるのかには執着も頓着もない。毎朝の洗面台の鏡に誓って。
でも陽射しの下にいる自分から映し出させる影を強く意識せざるおえないようだ。
その輪郭の滲みや色の濃さ。西陽からの角度においても。
つまりはそういうことだったのだと腑に落ちた。
新たなる(それは単なる数字・数値だとしても)日の幕開けはとても平凡でありがたいものだった。
横で眠るカミさんが居て、ワン子供たちが居て。ただそれだけで救われる。それはとてもとても大切な存在であり僕と僕の影を結びつけている大切な楔のようなものでもある。数日前に耳から入ってきた(それもふと思いついてボタンを押しただけのこと)音楽は僕を「影の向こう側」へと呼び込む。行ってはいけない場所のような、それでいてそこはとても居心地の良い僕が還るべき場所でもあると知っている自分。深淵のさらなる奥に私怨があることも分かっている。罰しても罰しきれない自分自身の最大の功罪であることも。
もしこの先に完全なる(それが無いことは知っている)許された世界が在るのであればそれも良い。
気がつけば世界を小さくしたいと心から思うようになった。
歳を重ねれば重ねるほどに。
それは矮小という意味合いではなく純化した美しい濃度をより色濃くしていく意味合いとして。
広く広く、広大な庭と小さな家のように。
そんな対比の美しさとも似ている。
捨て去る作業の連続とそれが難しい凡庸な自分(常に)の隙間の世界で。
もう少し。
この先が在るのであれば、それを見たいと思うようにもなった。
以前にはなかった感覚。
より鋭敏で意図的に。ソリッドな世界を目指してこれからどこまでいけるのだろうか。
まぁいいかと。ふと楽観的にもなり。
ただ少なくとも僕の世界はごく限られたものであることは変わりもなく。今でも今も同じ本と、同じ音楽と同じ家族があればいい。それだけで良いと。
心から思えるようになったんだ。

(Olympus OM-2 / Lens – ZUIKO – 50mm f1.4 / Film – Fujifilm)
今日の1枚
店のマガジンで最近使った写真
30年近く前に撮ったやつ。
まだもちろんフィルムしか無い頃の。
父親が持っていた OM-2 という機種(Olympus)だったのを記憶している。フィルムはフジフィルムだ。
懐かしいけど最初の頃だったからよく覚えている。
撮った場所もぼんやりだけど記憶している。
でも、それはとても珍しいこと。
僕はあまりにも健忘症的で日頃のこと、日々のこと。いろいろなことを覚えていられない。
歳を重ねたせいかそれはより顕著になっているのも確か。
少しだけ今はまた本を読む時間を作るようにしている。
今までよりも少しだけ早起きをして、その隙間時間とか。
あとは少し無理矢理的にでも。
どこかに置いてきてしまったことやモノがあるような気がしています。
具体的にそれがなんなのかは分からないのだけれど、感覚的にも感傷的にも。
写真と同じ。
たぶんどれもこれも。
「始まり」の頃はそれ自体に触れることが初めてだから記憶として自身の記録に残りやすいのだろう。
途中からそこに技術的なことや技巧的なことを考えるようになる。
そう、考えるようになる。
考えるようになると(別に悪いことじゃない)思考が錯誤もする。交差や交錯と言っても良い。うん。交わりが増える感じかな。
交わりが増えすぎて、特に僕は考えすぎる傾向があるのだろう。
その交差の立体性に自分自身ががんじがらめになって前に進めないことがある。
スクラップ・アンド・ビルドのためのスクラップ、スクラップ、スクラップ
さて、ここから。
まだもう少しだけスクラップ。







