今日という日は
まず、随分とこのブログをサボっていてなんだか情けないような気がする。
自分にとっての書くということの意味や意義。
それが沢山在るにも関わらず、その画面から逃げ出そうとしている自分。
ただ、もう一つ。
実のところ数ヶ月前から右の手首が痛い。
最初は一時的なものだと思って、いやそうきっと思いたかったのだと思うけどどうやらそうではないらしく膝や顎の痛みと同様に(つまりそれはある種の古傷と呼ばれるもので検査を受けても異常は見つからないが当人には常について回る痛み、鈍痛であったりする)日々の中で思い知らされる。
自分の中ではリズムが存在する。
カタカタとそれは羊たちが牧草を一定のスピードを持って食べるように。
痛みでリズムが止まる、崩れる。
それは俺にとってはとても不快なこと。
とりあえず今は薬局に売っていたクリームを塗って様子を見ながら。
そんな日常。
話。
あの日のこと
まだ当時はバンド(もちろん遊びのレベル)なんてのをやっていて、それは仕事を終えていつも通りのルーティンで仲間内の音楽スタジオで練習を始めた矢先のことだった。スタジオのオーナーが入ってきて「おいおいおい、アメリカがえらいことになってるぞ!」と言った。
彼は表現豊かなアルコール中毒者でもあったから俺たちはまぁ、『いつものことだね』って言って放っておいた。
彼は言った。
「いやいや、お前らねぇ今日のは違う!本当にすごいぞ!」
そんな彼の言葉もいつものことだから俺たちはそんな言葉も放っておいて吸いかけの煙草が灰になるのを待ってからまたスタジオでの遊びに戻っていった。
何度目かの休憩で煙草を吸いながら、一人が車に戻ってカーナビゲーションでテレビをつけた。(まだ当時はナビにテレビがあるのは珍しかったし、携帯電話だって今で言うガラケーが当たり前のだったな)
テレビではペンタゴンに突っ込む飛行機の映像が繰り返して報じられていた。
『あいつが言ってたのは今日は本当だったんだな』
バンドの練習をしていたのは毎週火曜日と金曜日だった気がするから曜日はきっとそのどちらかだったように思う。
18年前の出来事。
今日という日はそういう日。
MAGNUM(マグナム)の彼らが撮った写真をその後に見た。
あの絵はきっとずっと焼き付いて頭から離れない。
言葉の無力を感じた。
同時に言葉の強さも感じた。
あの日という区切りはきっとまた俺というそのものの形成になっている。
また書けるように。
また進めるように。